チューリップバブル 世界最初のバブルとその崩壊

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経済の過熱とその崩壊はこれまでに何度も繰り返されてきました

日本では不動産市場の過熱とその崩壊が1980年代~1990年代におこりあとあとまで影響を残しました

世界で初めて起きたバブルは意外にも金融とは縁のなさそうなチューリップをめぐるものでした

このできごとからいろいろ学んでい行きましょう

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そもそもバブルとは

バブルとは、経済や金融市場において、資産価格や投資活動が実態や基本的な価値よりも過度に膨れ上がり、それが一時的なものであるにもかかわらず、投資家や市場参加者が続けてしまう現象を指します。

通常、バブルは期待値や期待収益が現実的な水準を大きく上回り、市場参加者が感情的な要因で行動することによって引き起こされます。

バブルが形成される一般的なプロセスにはいくつかの共通した要素があります:

  1. 投機的な熱狂: 投資家や市場参加者が将来の利益を期待して資産を購入することで、価格が急騰します。これはしばしば合理的な投資判断ではなく、期待や感情に基づいています。
  2. 過度な期待: 市場参加者が将来の利益や価格上昇を過大評価し、現実的なリスクや限界を無視することがあります。
  3. 借金の増加: 市場が熱狂的な状態になると、多くの投資家が借金をしてまで投資に参加しようとします。これが一層価格を押し上げ、同時に崩壊時の損失を拡大させる要因となります。
  4. 買い手市場: 利益を得るための期待が高まると、ますます多くの人々が資産を買おうとし、その結果、需要が供給を上回り、価格が上昇し続けます。

バブルは最終的に崩壊し、価格が急激に下落することがあります。この崩壊はしばしば大きな経済的混乱を引き起こし、投資家や市場参加者に大きな損失をもたらすことがあります。

それではチューリップをめぐってこのバブルが発生したできごとを見ていきましょう

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チューリップバブルの発生

チューリップは1550年代にオスマン帝国(今のトルコあたり)からヨーロッパにやってきました

1593年、植物学者のカロルス・クルシウスはネーデルラント連邦共和国(今のオランダ)のライデン大学に着任し、ライデン大学植物園を設立しました
クルシウスは自分で集めたチューリップの球根を植え、チューリップがオランダの厳しい環境でも耐えられることを発見しました

こうしてチューリップはオランダで人気を集め始めました

チューリップは、他の植物にはない鮮烈な色味あふれる花びらをもち、当時ヨーロッパで知られていたどの花とも違っていました

チューリップがオランダ国内ではやり始めた時期はちょうどオランダ黄金時代の幕開けと重なっていました
アムステルダムの商人たちは、収益性の高いオランダ東インド会社の貿易の中心となっており、その貿易では1回の航海で400%もの利益を上げることができていました

オランダ黄金時代とは

オランダ黄金時代は、オランダの歴史において貿易、科学、軍事、オランダ芸術が世界中で最も賞賛された期間でおおよそ17世紀ごろの時代です
1648年に終結したスペインからの独立戦争の終結、宗教上の関係で熟練工や金持ちの商人が来たネーデルラントに移住してきたこと、風車や泥炭など安価なエネルギー源があったこと、東インド会社の設立で世界の貿易で支配的なポジションを得たことなどの要因で世界で最も優れた海運国、経済大国になりました

花自体の魅力と、オランダの経済の活発化によりチューリップは誰もが欲しがるぜいたく品となり、品種も豊富になりました

中でも花びらに複雑な線や炎のような形の縞模様が現れる品種は大人気でした

現在ではこのような効果はチューリップのみに感染するモザイク病によるものと知られていますが、病気によって発現する(=実際の品種固有の模様ではないので安定して発現するわけではない?)ことも人気の要因だったのかもしれません

チューリップ栽培家は新しい品種には高貴な品種の名前をつけました
Admirael(提督)、Generael(司令官)という接頭辞に栽培家の名前を組み合わせたり、アレクサンドロス大王にあやかる名前にしたり、後期には”司令官の中の司令官”というふざけているような誇張しすぎた名前も出てきました
このような名前の付け方にも人気を集めて高値で売るという感覚が現れているように見えます

チューリップの人気が高まったため、職業栽培家はウイルスに感染した球根に対し一層高い価格を支払うようになり、価格は上昇し続けました

1634年までに、フランスでも需要が高まったこともあり、投機のために投資家がチューリップ市場での取引を開始しました

珍しい球根の価格は1636年を通じて上昇し続けましたが、11月までには、単色の一般的なチューリップ球根の価格までも上がり始め、すぐに、チューリップ球根であれば何であっても数百ギルダーで取引されるようになりました
大工の年収が250ギルダーといわれているので、かなりの高値で取引されていることになります

もっとも人気のある品種Semper Augustus(センペル・アウグストゥス、日本語訳:無窮の皇帝)の球根1個に対しては、12エーカー(5ヘクタール)の土地との交換が申し出られるほどでした

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チューリップバブルの崩壊

チューリップ・バブルは1636年から1637年の冬にピークを迎え、この時には1日に10回も取引された球根もあるほどでした

しかし、これらの契約を履行するための球根の引き渡しは行われませんでした

1637年2月、チューリップ球根の価格が急落し、チューリップの貿易が停止したためです

価格の急落はまずハールレムという場所で起こり、買い手が定期的な球根の取引に現れなくなりました

これは、ハールレムがペストの大流行のさなかにあったことが原因であると考えられています

ペストの流行により、投機を急拡大させるような、宿命論的なリスク選好文化が形成された可能性が指摘される一方で、他方それはバブルの崩壊の原因ともなった可能性があるとも言われています

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